総監督ノート

~学生自転車競技のコーチングメモ~

「帰属意識」と「拠点意識」 ~ 部を支える人材がひとりでも増えるように

日経夕刊のコラム「あすへの話題」に、いま法政大学・田中優子総長が毎週寄稿されている。
2月9日付の同欄では、法政大学にミュージアムを作ったという話題から、組織に対する「帰属意識」と「拠点意識」について書かれており、参考になるものだった。

田中総長のコラム要旨

そう長文でもないコラムなので、本来は全文を読んだほうが正しく理解されると思うが、全文引用も気がひけるので、そのうち主題となる部分を以下に抜粋しておく。

帰属意識というのは、所属していることに自らのアイデンティティを強く感じ、極端な場合には組織にしがみつくことで、自分をようやく保つような意識のことだ。”

”「拠点意識」を持つ人の場合は、自分が生まれ育った「拠点」ではあるが、自分自身ではないことを知っており、その拠点を居心地よくしていくことが大切なので、批判は積極的に受け入れ、改善に役立てるだろう。”

”大学という組織に対しても、学生や教職員は帰属意識ではなく拠点意識をもって欲しい。その組織にいかなる歴史が刻まれ、どのような性格的特徴があり、それをどう使って学び、研究し、組織改善していくのが良いのか、深く知っておくことで、拠点は真に個々人の役に立つからだ。”

 

「拠点意識」という言葉をネットで検索してもそれらしきものが出て来ないので、田中総長によるユニークな言葉かもしれない。
僕が端的に解釈するには、
帰属意識」=受動的なメンバーシップ、歯車・ぶらさがりマインド
「拠点意識」=能動的なオーナーシップ、牽引・推進マインド
とでも言えるだろうか。
個人と組織の同一視(identification)は、ロイヤルティといった意味でプラスの理解をされていると思うが、行き過ぎるとそれは自我の喪失にもなる、ということだろう。

いつも僕が部員諸君に言う喩えだが、
「我が部は大海の魚群と同じ。一匹一匹が集まって成り立っており、皆の泳ぐ速さや進行方向によって強くも弱くもなり、散り散りになることも簡単。自転車競技部という箱に入りさえすればどこかへ運んでくれるということはなく、諸君一人ひとりの行動が部の形を決めていく。」
これと同じようなことを、田中総長も仰っているのではないだろうか。

慶應義塾は「帰属意識」が強い?

つい先日も、週刊ダイヤモンドが「三田会 vs. 稲門会」のような部数稼ぎ特集をしていたけれど、そうした記事にお決まりの表現として、
慶應の卒業生は帰属意識が強いので、あちこちで三田会を作りつるんでいる」
「彼らの帰属意識に支えられ、多額の寄付金がすぐに集まる」
「社会に出てから卒業生であることのメリットを感じ、帰属意識がさらに高まる」
といった書かれ方がある。
これを前述のコラムの定義に照らすと、どうだろうか。

仮に、「慶應卒という看板に寄りかかって生き延びている」「塾員ネットワークの中だけで傷を舐め合っている」という人がいたとすれば、それは田中総長の言う「帰属意識」と言わざるを得ないだろう。
しかし、このご時世、そんな学歴や狭い社会の中だけで生き残れる時代ではもはやない、ということを、少なくとも僕の世代から下(=ポストバブル・氷河期世代)は十分理解・体験している。

そうではなく、僕が知っている(周りにいる)塾員諸氏はみな、それぞれに独立自尊を体現しながら社会で活躍し、さらに(ちょうど昨年が卒業25周年で寄付金集めをしていたこともあり)塾や塾生達への貢献を厭わない。人によっては僕と同様に後輩の面倒を見ている仲間もいる。これらはまさしく、「拠点意識」そのものではないだろうか。

「拠点意識」を醸成するには

しかし、”このご時世”と言ったように、我々を取り巻く経済・社会環境はますます速度と密度を高め、社会人は時間と競争にますます追われている。昨今の若手社員は残業やパワハラのない快適な社会人生活を楽しめているようにも聞くが、それも恐らく当初数年のことであろう。たとえ母校に対する無償の愛や心はあったとしても、なかなか行動を起こすまでの余裕がなくなって来ている。

これは、卒業生のボランティアによって支えられて来た塾体育会の多くの部にとって、相当クリティカルな問題であるに違いない。しかし例えば当部のような、OB/OGの人数規模やそれに比例しての経済規模が小さく、また広告価値もほぼない組織は、これをカネで解決する(例:プロのコーチを雇用する等)ことが出来ない。

したがい、今でも毎年数名ずつ輩出されていくOB/OGの「拠点意識」を高め、その中から(フィナンシャルだけでなく)フィジカルな支援も出来る人材が出現する確率を少しでも高める努力をするほかない。

そのための必要な条件は何か。田中総長の文章に埋め込まれている、「拠点の居心地」「刻まれた歴史」「性格的特徴」といった言葉に、そのヒントがあるように思う。例えば、

  • お互いに高め合える仲間
  • 練習、試合、合宿で流した汗や絞った知恵、その量と質
  • 部室や部車で過ごした濃密な時間
  • 誇りが持てるユニフォーム
  • 縦に連綿とつながった先輩・後輩の糸

といったことか。ややエモーショナルな表現になったかもしれず、またほんの一例に過ぎないが、これらの要素が各部員の心身にどれだけ蓄積されたかによって、拠点意識の高さがかなりの部分決定されるのではないだろうか。

実際に当部の先輩・後輩を観察しても、現役時代に一生懸命取り組んでいた(これは必ずしも競技成績の高低とも限らない)世代や個人ほど、卒業後も部に対するコミットメントが高い。
そして、ボランティア指導者の一番の役割は、そうした諸要素を出来るだけ整備・改善し、チームという拠点づくりをしておくことだと考えている。

これからの「拠点」はどこに

ところが、昨年来の新型コロナウイルスは、物理的な「拠点」の概念を崩壊させたと言ってよい。
学生達は慶應義塾に入学したものの、ほぼ全ての授業がオンラインになった今、eラーニングサービスに加入していることと何が違うのか。部室に集まれず合宿も禁止な彼らに、塾生・部員としてのアイデンティティを形成させることは出来ているのか。

この冬の大学スポーツでは、箱根駅伝での創価大の活躍や、大学ラグビーでの天理大優勝が目をひいた。これらの結果について巷では様々な受け止め方、あえて言えばやや不承な見方もあったかもしれない。
しかし、これはコロナ下における象徴的な結果であり、精神的支柱・アイデンティティの大切さ、理念やビジョンでチームをまとめていくことの重要性、を再認識させるものではなかったか。
(なお、彼らの勝利インタビューや各所での報道を見る限り、彼らに何らかの不自然さや違和感は全くなく、しっかりした受け答えの出来る極めて優れた学生アスリート達と見受けた。)

ひるがえって本塾は、開学の祖・福澤諭吉という確固たる存在があり、独立自尊をはじめとする様々な理念や思想がごく身近に遍在している。塾生や塾員が「福澤教」の信者であるということでは決してないが、皆がほぼ無条件に受け容れることの出来るフィロソフィーの基盤があることは、現在のような組織崩壊の危機において非常に恵まれていると言えよう。
また当部も、「自転車競技を通じ、全社会の先導者を育成・輩出する」という理念をコロナの遥か以前より掲げており、ここに揺らぎは全くない。

これからの「withコロナ社会」において、拠点意識を高めるための「リアル要素」が失われていく中で、上記のような「バーチャルな価値」の浸透によって一人ひとりの心の中に拠点を作る。簡単ではないがそのようなマネジメントが必要になっていくだろう。

拠点とは「拠(よ)る点」と書くが、当部から輩出される先導者(及びその候補)達が拠って立つ原点、ここを振り返って初心を取り戻しまた社会という戦場に向かっていく場所、そうした彼らが同じような後輩達を育成していく土壌。
それが日吉にあるのか三田にあるのか、あるいは卒業生一人ひとりの心の中にあるのか。いずれにしても、我が自転車競技部をそのような「拠点」にしていけたらと願っている。

(2021/2/11)