総監督ノート

~学生自転車競技のコーチングメモ~

本木雅弘と一流アスリートとの共通点

3月28日(土)に放送されたNHKプロフェッショナル 仕事の流儀」の本木雅弘スペシャル、ご覧になった方も多いのではないでしょうか。まあ大河ドラマの番宣的色彩(および緑茶の宣伝的色彩笑)はもちろんありましたが、この外出自粛でみんなが自宅にいる週末の夜に自分の番が回って来る辺りは、やはりモックン持ってるな、という感じがします。

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SNS上でも絶賛の声が多く挙がっているこの番組を見ていて、僕などはスポーツ選手と重ねる部分が多くありました。イチロー選手にも通じるものだったり、我が自転車競技部の中でも全日本表彰台クラスに入るようなトップ選手には似たような気質があるなと思ったり。あるいはまた、彼の生き様に学ぶ部分も多くあると思いました。
もし彼が何かスポーツをやっていれば、きっと今の俳優業と同じように、超一流のプレイヤーになったのではないか。今回はそんな感想をきっかけに、本木雅弘と一流アスリートとの共通点について、指導者の観点から徒然ですが書いておこうと思います。

理想の姿が見えている

番組を観ていてさすがだなと思ったのは、ドラマのワンカット、CMのワンシーン、雑誌グラビアのいち表情のほぼ全てについて、「こうあるべき」「これが完成形」という理想像が本木さんには見えているということです。それを基準に、映像を見返して「うーんこれじゃないんだよな。まだ出来てない」とかを繰り返す。
彼をよく知る人として途中に登場した香川照之さんが、「彼は(野球に喩えると)遠投で700mくらい投げたい、でも120mくらいしか届かない自分を悔しがっている」という趣旨のコメントをしていました。最終的に700mの遠投が出来るかは分からないけれど、少なくともその距離を明確な目標に置き、それを実現するために日々考え進化・改善している人間にしか、そこへ到達することは出来ないのだと思いました。

アスリートにおいても、目標設定の大事さは言うまでもありません。自転車競技でいえば、「インターハイ、インカレで入賞する」「強化指定選手になる、日本代表に選ばれる」「ヨーロッパでプロになる」といったようなこと。あるいは日々の練習の中で、「今のフォームやペダリングは、理想じゃないんだよな」「いまのスタートはすごくイメージ通りの身体の使い方が出来た」といったようなこと。後者のほうが、番組中の本木さんの姿により近いかもしれません。

そしてトップアスリートの場合は、その「理想の姿」「理想の動き」がかなり鮮明に、解像度高く頭の中にあって、かつ現在の自分と重ね合わせることが出来ている。自分にもいつかきっと出来ると信じている。ゆえに現在と理想・目標とのギャップを正しく認識し埋める努力が継続的に出来ている。こうした点が、一流と二流以下を分ける大きな要素だと思います。

自己への厳しさ、妥協のなさ

大河ドラマ麒麟がくる」の制作現場に密着していたパート。そこには、本木さんが自身の出演カットをモニターで見返して、監督・スタッフがOKと言っているのにも関わらず、自らリテイクを申し出る姿がありました。上述した”理想像の追求”にも重なりますが、周りがOKしているからといって、自分が満足出来なければ、スタッフや共演者を巻き込んででもとことんやり直す。結果的に最後まで100%満足いかなくても(そういうケースが多いようでしたが)、その反省をまた次の糧とする。そうしたストイックな姿は、スポーツ選手で言えばイチロー選手や為末選手などにも通じるものがあるでしょう。

僕は、俳優や歌手・タレントというものは、所属事務所はじめ周囲がそのブランドやイメージを作り上げていくものだろうと思っていたのですが、本木さんは自分自身で「本木雅弘」をプロデュースし、ブランディングをしている。おそらくそれは、番組内でも本人が触れていましたが、「シブがき隊」時代に自身の実力とかけ離れたところで、周りに作られて人気だけが先行していたことへの葛藤や悩みを経たゆえのことなのでしょう。

当部から(時々ですが)輩出している国内トップクラスの選手も、同様な気質を持っています。彼らは当部へ入部してくる前の段階、中学・高校までの間で真剣にスポーツに取り組んだ経験を持っていることがほとんどなのですが、その過程で「頑張る、やり抜く、考え抜く」という所作を既に体得しています。
自転車競技を始めてからも、その克己心や達成意欲は極めて高く、自ら学び伸びていきます。彼らは元々の身体能力もかなり高いので、その成長率は指導者側から見ても目を見張るものがあります。彼らのような素材には、入部当初にポジションセッティングをしてあげることくらいはしますが、実はその後の技術的な指導はほとんど必要としません(必要とされない、というか笑)。

それに対し、せっかく身体的素養があっても一流半や二流で終わる選手の多くは、口先では立派な目標を掲げたり、競技のノウハウやうんちくを語ったりはしているものの、実際に自分の中でその理想像に達することを信じていないか、成長意欲が低く建前で言っているだけのことがほとんどです。
少し心理学的な話になってしまいますが、「理想自己」の設定水準が高くなればなるほど、「現実自己」への評価は相対的には低いものになる。そのギャップを克服することを楽しめれば良いのですが、妙なプライドから現実自己を受け容れられず、「口先だけ」または「YDK」(やれば出来る子、でも今はやらない・・・いつやるの?)になってしまう。そこが一流とそれ未満との差です。

この症状への短期的な処方箋としては、理想自己の水準を下げてあげることなのですが、それでは成長につながりませんし、既に本人自身が「部の中ではまあまあ強いほうだから、今のままでいいや」といったところへ逃げ込んでいる可能性が高いです。かなりの劇薬か外科的手術 ー 例えばプライドを粉々に砕くような強い指導をするとか、彼女からもっと強い人じゃなきゃ嫌だと言われるとか - が必要で、こうした一流半~二流の選手の行動変容を起こすことは、なかなか簡単なことではありません。
ただしこのゾーンの選手は基本的には身体能力も頭脳も悪くないので、スイッチを入れることが出来れば開花する可能性も高く、粘り強く指導する価値はあると思っています。

やっぱりナルシスト

一方で、これも本木さん自身が番組内で言っていましたが、「ナルシスト」的な側面は多かれ少なかれ一流の人間には付きものです。特に「外見」が主要商品である俳優業の場合は、自分がどう見えるかだけが最終的なアウトプットであり、そこに全身全霊を傾けることが必須だとすれば、ナルシズムなくしてその仕事は出来ないでしょう。

アスリートの場合も、上述した「理想の姿に自身を重ね合わせる」プロセスにおいて、ナルシストやエゴイストに見えることが多々ありますし、強い選手ほどその確率が高いというのは沢山の選手を見て来た実感としてあります。その結果としてチーム内外であらぬ誤解や軋轢を生み、浮いてしまうようなことも珍しくありません。

その辺りの「個性」「とんがり」をどこまで許容し、かつチームの一員として処遇するかは、指導スタッフの腕の見せどころかと思います。当部の場合は、自転車競技がただ強ければ良い、強い選手が大学名を宣伝してくれれば良いというわけではありませんし、社会のリーダー人材を育成・輩出するという目的を掲げていることからも、そうした「とんがり」部分が過剰にならないよう留意はしています。強い選手に対しても言うべき時は言わないとワンチームになりません。

ただし一方で「出る杭は打たずに伸ばす」ことも非常に大切と考えており、他の団体競技に比べれば恐らくずっと自由で、ダイバーシティがかなり広く取られている部だとも思っています。ゴルフに喩えれば、OBにならない程度(=少々ラフに入っても良いくらい)の幅で個性的な選手も他のチームメンバーもお互いを理解し合うように、指導陣が少しずつ誘導・修正していれば、グリーンまで多少ジグザグに進んだとしても、その選手が3年生・4年生になったくらいのところでは、それなりに大人になってカップに収まっていくものです。

自分ひとりで考えている

本木さんの姿を見ていて思ったことのひとつが、理想へ至る過程を「誰にも相談せず、基本的に自分ひとりで考えている」という点です。
例えばドラマのワンシーンがいまひとつ気に入らないとして、次のリテイクでどこをどう変えるのか、普通だったら演出家や監督と相談しながら決めそうなものですが、彼は自分の中にそれがあって、しかも言わないから周囲の皆は良く分からないけどとにかく撮り直す、ように見受けました。もちろん、演出家からの要求で芝居を変える時もあるようですが(大河ドラマでは結局そこはカットされたらしい)、見ている限り、周囲の期待値より彼自身の目標値のほうが大抵高そうです。

あるいは、奥様の内田也哉子さんや、義父・義母である今は亡き内田裕也樹木希林夫妻からの影響はかなり強くあったのかとも推察されます。けれどそれさえ、本木さん自身の尺度で咀嚼・吸収されてはいるのでしょうが、也哉子さんが「義母とはかなりぶつかっていた」と言っていた通り、本木さんが表面的にも素直に相手の言うことを聞き入れて、という感じではなかったように思われます。

スポーツの世界では「コーチャビリティ」という言葉があります。直訳すれば「指導可能性」とでもなりますが、選手側のキャパシティを表現する単語です。指導者からのアドバイスを一旦聞き入れ理解する能力、それを自身で取捨選択する能力、色々な外部情報を取りに行く能力、といったことを含んでいます。この言葉はちょっと指導者側に寄り過ぎた目線とも取れるので僕はあまり好きではないのですが、現実としては「彼はコーチャビリティがあるから今後伸びるだろう」などという使われ方をします。

一流のアスリートとコーチャビリティについて言えば、総じてコーチャビリティの高い選手が強くなる傾向にあるのは間違いないでしょう。それを突き抜けてコーチをあえて置かないベテラン選手もいたりしますが、少なくとも高校・大学くらいの年代においては、自分の殻に閉じこもっているだけでは成長率に限界があります。一方で何でも受け容れ過ぎてダッチロール状態になっても、進むべき方向からそれてしまいます。ちょっと強くなって目立って来ると、妙に関係者や部外者があれこれ口を挟んで来るものですが、それらを適当にあしらいつつ必要な人・情報を選別する能力も必要になって来ます。

では本木さんにコーチャビリティがないのかというと、きっとそうではないでしょう。番組の途中でロンドン滞在中の映像がありましたが、海外でたっぷり時間をかけて美術に触れたり、普段とは異質な音楽体験を現地のミュージシャンから学んだりと、新たな刺激(と休息)を受けにいく姿がありました。日本ではもはや「大スター」に物申す人がいないだけで、潜在的なコーチャビリティはとても高い人かなと思います。国内でそこそこ強くなった選手にとっても、海外へ出たり、違う競技から気付きや知恵をもらったりと、本木さんを参考にする部分があるかと思います。

本当の自分は、それでも見せない

今回の番組制作でNHK側が苦労していたのは、ドキュメンタリーであるにも関わらず、本木さん自身からの演出要望がかなりあったことだろうと推測します。「伊右衛門」のラベルをわざとカメラ側に向けて飲む姿などは可愛いものですが、途中に挿入されていた白と黒の背景の間を本木さんがさまよう「光と影」のワンシーンなどは、別に全体の中で必要性がさほど感じられませんでしたが、恐らく本人の芸術性から要望されたのではと勝手に想像しました。

そもそも密着取材自体、本木さんに対しては今回が初の試みだったようです。それを受けた理由として「50歳を過ぎて少し頭打ちになっている感覚があり、客観的な視点で見られることで何か気付きを得たいから」という趣旨のコメントを本人がされていました。それでも視聴者からすると、「とても面白い番組だったけれど、果たしてどこまでが事実でどこまでが演出で、本木雅弘の素顔はどのくらい見られたのだろう?」という部分は多少残りましたね。
もちろん、プロとして楽屋裏をどこまで見せるべきか見せないべきかというのは十分理解出来ますし、プロスポーツ選手にも共通したものでしょう。「練習風景は商品ではない、あくまでスタジアムでのプレーを見て欲しい」というのは、プロとしての正しいあり方だと思います。

我々大学スポーツはあくまでアマチュアですが、当部でも強いほうの選手は楽屋裏を見せない傾向がやはりあります。当部では、各自が練習日誌を書いて共通の部ブログや各個人のブログ、ツイッター等に上げるようにして、部員間や指導スタッフとの情報共有を図っているのですが、意外にも強い選手ほど残念ながらそれをしてくれない傾向があります。
そもそも練習日誌はまず自分の頭の整理が第一目的であって、どの競技でも小さな頃から練習日誌をずっと付けているような選手が強くなっていくものですから、彼らも個人で自己管理をしていないわけでは決してないと思うのですが、日頃の練習は監督の僕にさえ”非公開”なことがままあります。
彼らからすると「これだけ練習して(あるいはしていなくて)このパフォーマンス」ということが良くも悪くも(ネット上で広く)知られることは、そのプライドに照らしてあまり好ましくないのかもしれません。近年では積極的に自身の活動状況をSNS等にアップするプロ・実業団選手も多いので、その流れに乗ってくれても良いのですが。ただし彼らはファンを作る必要があるためなので、それもそれで楽屋の裏なのか表なのか分からないところはあります。

学生諸君が今後出ていく社会・企業においても、「結果が全て」なのか「プロセスも見るよ」なのか、この議論は尽きないところです。ただし、国内企業だけですが多くの会社を見て来た僕の経験からすれば、結果のみで人物を評価している会社など今もまずありません。結果が数字で表れやすい営業部隊であっても、その数字を基に給料が決まることはあっても、誰をリーダーにするか、誰に次の成長機会を与えるかの判断においては、日頃のプロセスであったり周囲の評判だったりが有形無形に加味されていることがほとんどです。それが企業の永続的成長のための人材育成としては(日本的ではありますが)リスクの少ないやり方だからです。
加えて言えば、人間は白鳥ではないので、水面下で必死に努力をしているのか、適当に流しながら泳いでいるのかは、見ていればおおよそ分かります。それを踏まえて、伸びしろがあると見るか、そこが限界と見るか、任せられないと見るか、評価の仕方はシチュエーションによって様々ではありますが。

いずれにせよ、超一流のプロである本木さんがどうかはさておき、まだその段階の手前にいる当部の部員には、ぜひプロセスをも大切にしてもらいたい。そして願わくば、日頃の練習状況を監督にもきちんと教えて欲しいと思います笑。

そういう一流選手を、どう育てるか

今回の番組から垣間見られたような、一流の俳優やスポーツ選手の持つ素養が、どのように醸成されるのかは、僕もまだ明確にはよく分かっていません。当部に入ってから自分に厳しく出来るようになった、というような部員は正直それほど多くはないのですが、あるとすれば「初期での小さな成功体験」「その積み重ねによる”夢中化”」「そこそこ強くなり期待されて来ると、降りられなくなる」などの要因が考えられるかもしれません。ただしそれらも、内発的な克己心がそもそも根底にあってこそなような気もしていて、幼少期からの教育・しつけ・成育環境などとの相関を、誰か解明してくれないかなと笑 思っています。

とはいえ、入部して来る部員を幼少期の過ごし方で選別するわけにもいきませんから、指導スタッフとして彼らが出来るだけ成長してくれるような環境と材料だけは、可能な範囲ではありますが提供してあげたいと考えています。理想像の提案、それに至るプロセスの支援や激励、時には軌道修正、そして阻害要因の除去やさりげない保護、などです。もちろん、それらを活用するのも受け流すのも選手本人の判断次第であって、押し売りは決してしません(流されることのほうが多かったりもしますが、いずれ慣れます)。

前述したように、一流選手は「育てる」のではなく「勝手に育つ」と表現するほうが近いように思います。もちろん、コレはという素質を発掘して付きっ切りで育て上げる、というような名伯楽を夢想したくもなるでしょうが、現状の社会人ボランティアベースではそれは夢に取っておきましょう。
ただしせめて、当部でも一定の確率で現れるタレントが伸び伸びと活動し、モチベーションを高く保てるような環境を維持すること。そうした才能ががっかりして「流出」してしまうことなく、あるとすればより高みに向けて翔んでいく「輩出」であること。当部が本木雅弘を育てたジャニーズ事務所になれるかどうかは定かではありませんが(別にならなくて良いんですが)、そうした想いでこれからも日々、自転車競技部という畑を耕し水をやっていきたいと考えています。

(2020/3/29)