総監督ノート

~学生自転車競技のコーチングメモ~

TOJステージ優勝 ~ 実業団に送り出す価値と留意点

国内最高峰のステージレース、ツアー・オブ・ジャパンUCIアジアツアーの冠も付いたこの高いレベルのレースで、当校選手が勝利するとは誰が予想していただろうか。いや、それを現実のものとした本人にとっては想定の範囲内だったかもしれない。

新型コロナの影響で昨年は中止となったこの大会だが、今年は5月28日~30日の3ステージ(通常8ステージ)、UCIアジアツアークラス2.2(通常2.1)、海外チーム招聘なし(通常7~8チーム)、という縮小形態ではあるものの開催にこぎつけた。その裏には栗村大会ディレクターはじめ関係者の粘り強い努力があったと聞き、敬意を表したい。

そのような、例年に比べると難易度のやや低下したとも思われる今大会だが、それゆえに、大学2チーム(日本大学京都産業大学)やU23選手で構成されたジャパンナショナルチーム等の若手選手にチャンスが開かれたレースであったとも言えるだろう。実際に彼らの積極的な走りが毎ステージを活気あるものとした。
そして、実業団レースがJBCFとJCLに”分裂”してしまった今季、その両リーグに属する有力チームがコンディションも合わせて一同に会するという意味では、国内トップレベルの競技が期待出来る貴重な機会であった。

その最終3日目、大井埠頭で行われた112kmの東京ステージで、当校から今季、弱虫ペダルサイクリングチームにも所属している川野碧己(経2)が、並み居る強豪選手を尻目に見事レース後半を逃げ切り、小林海選手(マトリックス・パワータグ)との一騎打ちスプリントを制して優勝した。またそれにより総合ポイント賞ジャージも獲得することが出来た。
加えて3位グループとなるメイン集団の大きな塊の前方では、愛三工業レーシングチームに所属する大前翔(医3・休学中)も持ち前のスプリント力を発揮し6位でゴールした。

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このレベルのレースで、特に推薦・優遇制度等を持たない我が慶應義塾体育会自転車競技部、さらに言えば附属校の慶應義塾高等学校出身の両名が先陣を切って戦っていることは、手前味噌ながら本当に凄いことで、素直に喜ばしく、彼らのここまでの努力を称賛したい。
しかしそれと同等以上に、このような成果が得られたのはそれぞれお世話になっている実業団チームのご支援あってのこと。しばらく新しいコラムを書けていなかった本ブログだが、このインパクトある結果を得て、今回は増加しつつある学生選手が実業団でも走るケースの価値・効用と、それに伴うチーム運営側の留意点について書き留めておきたい。

当部における実業団参加の現状

近年の国内競技力の底上げ及び頂点引き上げに対する危機感を背景に、かつて各競技連盟間に存在した”垣根”は徐々に取り払われ、学連チームに籍を置きつつ実業団チームにも所属する”二足のわらじ”を履いた選手がこのところ増加して来た。
実業団の選手採用枠に入れるほどの実力を持った学連上位選手に限られるのではあるが、これによって年間ロードレース数の増大と経験値の向上が図られ、学連レースのレベルアップにも間違いなく寄与している。

当校でそんなケースは出て来るのかと思っていたが、まず女子において、2016年に入部した福田咲絵(令2経卒)が稲城FIETSさんから実業団レースに出させていただいていた。女子は特に学連だけだとレースの量・質が圧倒的に不足するため、大変有難かった。またその後約半年間、フランスの地域代表女子チームELLES Pay de la Loireにも所属する機会を得て、欧州のレースで貴重な経験を積むことが出来た。

続いて、同じく2016年に入部した大前は、1年目を学連で走った後、2年目は慶應から離れて東京ヴェントスに所属し実業団登録で走った。3年目を再び慶應/学連に戻り主にU23日本代表の活動に注力し欧州レース等も経験。そして2019年から、若手選手の育成にご理解のある愛三工業レーシングチームで走らせていただくこととなり現在に至っている。確かまだその当時男子では並行登録が認められていなかったこともあり、大前はシーズン毎に主戦場を選択しながらステップアップして来たことになる。

彼は本塾医学部で勉強途上だが、19年から休学をしてチーム及び自転車競技に100%を注入している。そこへコロナ禍が襲来したのはやや残念ではあるものの、それにひるまず各種SNS等での情報発信活動や、将来を見据えてのコーチング活動などにも精力的に取り組んでいる。実は川野にも、今季初頭から日々のメニュー設定やアドバイスをしてくれており、レース上ではライバルでありながらも今回の戦果を蔭で支えてくれたことになる(なので、今後も”敵塩”と言わず続けて欲しい)。

また今回ステージ優勝した川野は、2020年に稲城FIETSさんでお世話になり(ただしコロナもあってレース数は少なかった)、そして今季は弱虫ペダルサイクリングチームに加入させていただくこととなった。
弱虫ペダルさんのご理解を得て所属させていただいていなければ、そもそも川野がTOJに出場する機会さえなく(さらに言えば、今大会がクラス2.2となったことでクラブチームである弱虫ペダルさんが出場可能となった、まさに千載一遇のチャンスであった)、またここまで急速に競技力が向上することもなかったと思う。今回大学チームの出場枠(2校)が設けられたとはいえ、慶應がそこに名乗りを上げるには総合力としてまだ二歩も三歩も精進が必要な段階にある。
弱虫ペダルさんの若手育成に対する情熱、入部選手をはじめとするチームメンバーの皆さんの寛容性、そして佐藤GMのご配慮とマネジメントに心から感謝申し上げたい。

並行登録は大いに推奨

僕は基本的に、「実業団との掛け持ちが貴君の成長に資すると思うなら、ぜひ思い切りやって来なさい」といって送り出すことにしている。アスリートの「強くなりたい」という情熱を押さえ付けることなど出来ないし、部内でトップレベルにある選手が必要な練習水準を確保出来ているか、常に気にしているからだ。

かといって、僕が能動的に実業団各チームへ当部の選手を売り込んだり、強い選手のために加入出来そうなチームを見付けて来てあげたりするということもない。前述した福田にしろ大前にしろ川野にしろ、ステップアップしたい部員は僕の知らない間に自分で話を概ねまとめて来るし、狭い自転車競技界で、彼らの周囲にはそうした情報が自然と集まっても来ているようだ。

僕の役目は、彼らが並行登録や一時転向の希望を申し出て来た時に、それまでの競技に対する姿勢、掛け持ちをしたい理由・目的、希望先チームへの順応性、等へ瞬時に思いを巡らせてYes/Noを判断してあげること。そして過去いずれのケースも、迷うことなく心から賛同が出来た。

大学チームの中には、「推薦制度で入学・入部させているのであるから、大学第一・学連第一に活動してもらわなければ困る」という方針のところもあると聞くし、それはそれでひとつの在り方だとは思う。
当校は幸か不幸かそのようなことと無縁であり、それゆえにフレキシビリティをもって選手の成長意欲を後押しすることが出来ていると言えよう。見方によっては都合の良い「ヤドカリ作戦」と見えなくもないが、こちらからも有形無形のお返しや貢献を出来るだけしつつ(←ここは大事なポイント)、今後とも実業団の皆様とは良い関係を築いていきたいと考えている。

並行登録の価値と留意点

上記の通り総論として僕は並行登録や一時転向に賛成・推奨のスタンスだが、そこに至る過程では、そのメリットと課題を考えておく必要があった。あくまで私見ではあるものの、以下に列挙する。

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学連~実業団 並行登録の価値・効用と留意点(筆者私見

価値・効用に関しては、概ね想像可能な内容が多いと思う。言い換えれば、このようなメリットが期待出来るチームとうまくご縁があるかどうか、が大切ということでもある。
学連も近年は、運営側のご尽力によってかつてに比べれば飛躍的にレース数は増えている。しかしロードレースで言えば平地・短距離のクリテリウム形式のものが多く、アップダウンを含む100kmを超えた本格ロードレースは年3本程度(インカレ、学生選手権、JICFオープンロード)に留まる。実業団にも登録することで、距離・内容・レベルの高いレースをその3~4倍経験出来ることは、選手にとって大きな差となるだろう(ただしそれはJPTが前提となる)。
日本代表チームへの選出やその強化指定対象となる可能性を増やすためにも、走りのアピールの場がより多くあったほうが望ましく、川野らが並行登録した理由の大きなひとつがそこにある。
また、スポンサードを受けること、それによって発生する責任と義務、といったことを現実に経験することは、”大人の階段”を登る上でとても有益である。近年は大学生レベルにも機材等を供給・貸与してくださるメーカーさんがいらっしゃり助かるが、中には勘違いをして、大して強くもなく広告価値などない選手が天狗になっているようなケースもあるかもしれない。「人様から経済的支援をもらう」ことの重みを是非理解して欲しいと思う。

留意点に関しては、選手というよりチーム運営者の観点で例示している。
選手本人や実業団側の方々が大抵気にされるのが、レース重複時のプライオリティの問題だが、僕自身は「スポンサードされている以上、実業団を優先する、の一択」であって、議論の余地はないと考えている。
当部の例で言えば、チームロードTTやチームパーシュートに川野が入っていたほうが結果はより良くなると思うが、レース重複や日頃一緒に練習する機会が少ないことに鑑みて、今季は基本的に川野不在の前提でチーム編成を考えている。あるいは実業団ではないが、日本代表チームの海外遠征と、学生最高峰の大会であるインカレが8月に重複した場合、福田や大前にインカレ優勝・表彰台の可能性がかなりあったとしても、彼らの成長・飛躍や代表チームに迷惑を掛けないことを最優先として、送り出したものである。

プロを目指し、欧州で走ることを目指して懸命に取り組んでいる選手やチームの方々にはやや申し訳ないが、誤解を恐れずに言えば、当部の部員が必ずしも同じ方向性にあるとは言えない。他の体育会各部のように、学生スポーツ(≒アマチュア)として自転車競技に懸命に取り組み、そこで醸成された人間性を社会人として活かしていく、のが当部の運営理念であり、部員の多くのベクトルになっている。
競技への情熱やモチベーションの高さでは勝るとも劣らないつもりだが、このような姿勢で自転車に取り組んでいる大学チームや選手は競技界ではむしろ少数派。そうした部員にも実業団チームや日本代表・強化指定に入る機会が巡って来ることは、誠にありがたいと思う。
恐らくそこには、「普段身の回りにいる優秀なタレントとはまた異なるキャラクター、それが何らか新たな刺激を与えてくれるのではないか」という無形の期待値があるのではないか。それが意識なのか知識なのか、行動規範なのか価値観なのか・・・は様々考え得るが、いずれにせよそうした期待に応えられる部員かどうかを見極めることは重要と思う。そうでなければ安心して背中を押してやれないし先方にご迷惑をお掛けしかねないが、幸いこれまでのケースはいずれもこの点でどうやら認めていただいているようで、安堵している。

その意味で、留意点の後半に列記した3点は、いずれもこれまでにあった例ではなく、今後も実業団希望が出て来るとした時に考慮しておきたい点である。
表面的な憧れのようなもので中途半端に”二兎を追う”ようなことをして、適当なクラブチームでJETのレースに出ているが経験・強化の両面で効果は薄く、一方で慶應のメンバーと顔を合わせるのはたまたま出られる学連レースの時だけ、結果的にどちらのチームでも大した貢献なし、といったことでは本末転倒である。
現時点でそんなケースが出て来るとは思えないが、わずか数年でメンバーが全て入れ替わり意識レベルや価値観が塗り替わるのが学生チーム。将来においてもこのようなホラーストーリーが杞憂に過ぎないことを願っている。

ステージ優勝の理由は他にもある

ここまで、学生選手が実業団でも走ることの意義を整理して来たが、今回のTOJ東京ステージ優勝が実現した背景は、そればかりではない。ここに至るまでの川野の選手活動に照らして僕が思ったことは、例えば:

  • 目標設定は大事。それを本当に信じて達成するのだという意思はもっと大事。
  • 自ら考え、行動し、吸収していく力。それを練習ブログ等の形で言語化することの効果。
  • 日々のメニューのコーチング、日々の相談相手の支え。それが慶應の先輩後輩で形成されていることの感慨。

といった要素である。これら一つひとつについても色々書き留めておきたいことはあるが、また改めての機会としたい。

いずれにしても、今回19歳の当校選手が投じた一石は、同じ部員達へ大いに刺激になっただけでなく、学連選手・U23選手達、ひいては自転車競技界全体にも(良い意味での)波紋を投げ掛けることになったようである。もちろん、当部のOB・OGや周辺関係者も歓喜し盛り上がっている(これで寄付金が増えると良いが!)。
これからも当部部員の様々な活躍によって、自転車競技・サイクルスポーツの頂点上昇や裾野拡大に少しでも貢献出来れば、現存する日本最古の自転車競技チームとして、大いに望むところである。

(2021/6/3)