総監督ノート

~学生自転車競技のコーチングメモ~

コーチングを始めた頃の当部の”惨状”と再建の経緯

僕が仕事のかたわらボランティアコーチを14年以上続けていると、「よくやってくれるね」「奥さん大丈夫なの」といった声をよく掛けていただきます。同時に、少し手伝ってくれる後輩達からは時々「いやあ、そこまでは出来ませんよ」という率直なつぶやきをもらうこともあります。

誤解のないように申し上げておくと、僕とて本当に大したことは出来ていません。しょせんサラリーマンが平日夜間と週末に出来る範囲でやっているだけで、たまたま僕が、比較的時間の融通が利き転勤可能性も少ない職場・立場だったり、親との二世帯住宅・夫婦二人子なしという経済的に多少恵まれた状況にあったりという、偶発的幸運がある程度です。現役部員達からすれば、本当は全く満足していないでしょう。

それでも、年間52週のうちおよそ7割はどこかの試合・練習・合宿に行き、年間約15日の有給休暇のほぼ全ては遠征と合宿に充てています(家族には本当に顰蹙ものです)。会社の同僚達からもすっかり承認されて(というより目をつぶってもらって)います。

その原動力は、ひとえに「指導を始めた当時の状況には二度と戻りたくない」という、あえて言えばものすごく強い恐怖感のような、そんな思いです。このブログでいわゆる「昔話」をするのは最小限に留めようと思っていますが、「その時の状況」を共有しておくことはとても大切だと思うので、あえて当時の出来事を少し(というかちょっと長くなりますが)書き残しておくことにしましょう。

2006年:高校を見始めた頃

僕が特に本格的に後輩の指導をするようになったのは、2006年シーズンからです。ちょうどその頃、国内で健康志向や環境意識の高まりなどを背景にサイクルスポーツがブームになり始めていました。高校サイクリング部の部員数が増え、顧問の先生だけではさすがに目が行き届かなくなったとの報を受けたのがきっかけです。

久しぶりに行ってみた春の神奈川県大会。我が校の状況は目を覆うばかりで、どの種目もろくに勝負には絡んでおらず、1kmTTは下位を独占、機材も僕が現役だった頃(!)とほぼ同じ。観戦に来た保護者達からは「なんだかウチだけ違うスポーツをしているみたいね」とささやかれる始末でした。

自分の母校の、自分の在籍した部がそんな悲しい状況であるのに耐えられなかったこと。それでも自転車競技をやりたくて入部して来た高校生達が目の前に沢山いること。彼らをこの状態に放置していた我々OBとしての申し訳なさ。そして、どう見てもちょっとだけ常識的な手ほどきさえすればこの状況からはすぐに脱出できると思われたこと(それくらい酷かった、ということですが)。それらがモチベーションとなって、僕と高校生達とのリベンジが始まりました。

早速、機材・ポジションの総チェックや練習メニューの基礎的レクチャーを始めました。まだ若かった僕が一緒に走っての指導も週末に行っていきました(そのための自主練も、結構必要でした笑)。またこの窮状をOB/OG会に訴えて寄付金を70万円ほど集め、高校生達が自身でその使途を考えて、トラックディスク3枚とトラックレーサー2台を購入(クロモリからアルミへの大幅進化!)。その当時の寄付金嘆願レターには、こんなパートがありました↓

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寄付金募集要項に記載した、機材・装備に関する比較説明

(ちなみにこういう時、現場を見ていないOB/OGには、本当に必要なのか、単なるおねだりなのかの区別がつきませんので、出来るだけビジュアルで見せることが大切です。ここのPR技術次第で、集まる金額や速度がかなり違います。これもコーチの手腕のひとつと思いますので、今後必要となった場合は創意工夫してみてください)

幸運にも、当時の高校部員達にはやる気とセンスが備わっていたので、その秋の県新人戦ではトラック総合3位、ロード総合2位までジャンプアップしました。それまで久しく放置状態で部員数も少なかった”古いだけ”の学校がにわかに騒ぎ始めたので、県の中では何だなんだと煙たがられていたようにも思います。それでも部員達は冬の間も努力を続けさらに成長、翌2007年には県・関東を経て15年ぶりに全国高校総体(インターハイ)へ出場することができました。以降、部員数のかなり減少した途中の2年間を除いては、2019年まで概ね毎年出場を続けています。

2012年:大学も掛け持ち始めた頃

高校が徐々に復活して来て、その彼らが大学でも続けてくれれば「7年計画」で慶應自転車競技部も安泰と、我々OB/OG会はたかをくくっていました。それが一貫校を持つ我々の唯一の強みだろうと。ところがそう簡単には問屋が卸さなかったのです。

インターハイ復活を遂げた代の主将だった選手が、弱体化していた大学チームに嫌気が差してさっさと退部してしまう事態が発生。その後の後輩達も一定率では大学チームに入部したものの、あまり目覚ましい活躍のニュースは聞こえて来ませんでした。
そして彼らが3年生になった頃、「大学のほうもこれではまずいです、何とかお願いします」と連絡がありました。かつての”教え子”に乞われてしまっては無下に断れず、2011年のシーズン終わりに、大学の試合をいくつか見に行きました。その僕の目に入ったのは、それはそれは酷い光景でした。

日頃ほとんど練習もせず試合にだけポッと出て来る、当然走れないのでクリテリウムの1周目から当校のユニフォームばかりが千切れて戻って来るか、田んぼに落車して行方不明。早慶戦では早稲田に完敗しているのに悔しそうな顔がひとつもなくヘラヘラ笑っている。学連役員から暗に「慶應さん、もう少し練習してから出て来てくださいよ」と嫌味を言われてしまう。そんな屈辱的な状態でした。

当時の部内資料には、次のようなことが書かれていました:
・週6日の定期的な練習習慣が出来ていない
・ろくに練習もしないで試合だけ出て来る
・ポジション設定、フォームの改善余地大
・新入生の初期育成システムがなく、ほったらかしに近い
・高級機材がないから弱いのも仕方ない、と思っている
・スナック菓子、チョコレート、コーラが常食
・部員間のコミュニケーションがあまりなく、意識がバラバラ

やる気のある部員もいなくはありませんでしたが、抜本的に体質を変えていくには、学生同士だけでは難しかったのでしょう。OB/OG会長と相談して、身体が1つしかない僕ではありますが、大学・高校を兼務することとなりました。

2012年の年頭ミーティングで、なぜ当部で自転車に乗っているのかを部員全員に問いました。別にサイクリングサークルもあるし、ショップチームで趣味で走るのでもいい。そして、当部の部員資格として謳っている「自転車競技を愛し、勝利に対する努力を惜しまない者」に該当しない者は去れ、と宣言しました。
この頃の大学は既に部員数だけは多かった(25~30名)のですが、実際に何名もの部員がそんな部だと思わなかったと言って退部してしまいました。それでも僕は、最低限こうあるべきとの考え方を曲げず、また志を同じくする部員達は残って頑張ってくれました。

この時の再建では、手を変え品を変え、色々やりました。目標設定の見直し、練習日誌の徹底とコーチコメント、トラック合宿やカーペーサーの導入、月例ミーティングの実施、機材補強、など多岐にわたります。高校生に比べると、大学生のほうが当然年齢の分だけ自我が発達しており、また”色々なこと”に目がいき気の散る環境・年頃ですから、変革には労力と時間をより必要とします。

またこの時は、最低限の練習量を確保するために、「月間何km以上走らなかった者は、翌月の試合には出さない」という、ネガティブ・ルールをあえて導入しました。その適用最初の試合が、2月に開催される明治神宮外苑でのクリテリウム。都心で行われ観客も多く華やかなレースには当然出たいですから、現役部員は慌てて練習量を増やし始めました。
本来僕は、会社でも部活でも「性善説」での組織運営をすべきと思っているので、このような罰則的な手法、外発的動機によって部員達を動かすことは、全く本意ではありません。ただしかなり荒療治をしなければいけないタイミングだと見定めた場合は、短期的にそうした手法を導入することも検討すべきでしょう。

これらの結果として、短期的にはまだ入賞未満のレベルではありましたが、当校の競技水準は着実に上向いていきました。部の体質も、年度毎に波はありつつも徐々に良い意味での「体育会的」なものになっていきます。そして、2014年度の全日本学生個人ロードTT3位入賞を皮切りに、全国レベルで通用する選手が常に1~2名は在籍するようなところまで改善されていきます。

でも、ちょっと目を離せばすぐ元通りになるのが組織

上記では、高校・大学それぞれの放置された状態と、その後の再生を少し単純化して(誇張はしていませんが)記載しました。ただし実際には、14年の間にも色々な波があり、僕自身の仕事の都合や、指導スタッフの増員と担務分散、その時々の現役部員(特に幹部部員)のキャラクター、等に応じて、部員諸君との距離感は都度変化させて来ました。

結果として感じるのは、これはスポーツに限らず世の中共通と思いますが、「石垣を積み上げるのは長い年月と労力を要すが、それを崩すのは一瞬で出来る」ということです。

ほんの一例ですが、この数年、大学男子からインカレロードの完走者すら出せていないのは、ロード系の練習に僕が十分目を配れていないからに他なりません。月平均1,000km程度の練習しかしていなければ、そりゃ無理です。ですが、一度こうなってしまうと、そういう先輩を見て新入部員もコピーになります。そのループを断ち切るのは、上記のような再建活動をほぼもう一度やるようなことに近く、その労力はムダ以外の何物でもありません。

一方で、コツコツ型スポーツの典型である自転車競技は、「やるべきこと」をしっかりこなせば少なくとも今の国内学生競技レベルならそこそこのところには到達できます。その中から一定の率で(リクルーティング制度のない当校では低い率ですが)突出した選手も現れるでしょう。その水準を維持するためには、コーチ側も日頃からコツコツと目を配っているほうが、トータルでは少ない労力で済む、と思っているのです。

理想的には、誰が監督・コーチであろうとも、あるいは指導スタッフがいなくとも、チームの意識レベルや選手一人ひとりの目線が高い位置に保持され、部のDNAとして刷り込まれるところまでいきたいものです。企業で言えば、経営理念、創業の精神、社訓、といったものが従業員全員に深く浸透出来ている会社は強い(もちろん、変わらないものと変えていくものの両方がありますが)。
それと同じことを当部で実現するにはどうしていけば良いか、今後も現役諸君やOB/OG諸氏と考えていきたいと思っています。

(2020/1/3)