総監督ノート

~学生自転車競技のコーチングメモ~

「努力は夢中に勝てない」

去る1月12日付けの日経新聞日曜版、中ほどの色刷りのページに、セレクトショップビームスの設楽洋社長のインタビュー記事がありました。慶應の大先輩でもある設楽氏の直筆で、「努力は夢中に勝てない。」という言葉が、彼のサインとともに掲載されていました。
その言葉にピンと来て、そのページを抜き取りしばらく手元に置いておきました。スポーツのコーチングにとって、とても重要な示唆を含んでいるのではないかと思い、考えてみたかったからです。

設楽社長の言葉が意味するところ

そのインタビュー記事によれば、設楽氏がこの言葉を語っているのは、ビームスが「渋カジブーム」で急成長していた80年代後半の頃の文脈。幹部社員が集団退社してしまい(その社員達がのちのユナイテッドアローズを立ち上げるのだそうです)困り果てた設楽氏。会社に残った若手に思い切って事業を任せる判断をした局面です。彼の言葉をそのまま引用すると、

「先輩のやり方を一生懸命踏襲してもいいものはできない。自分の好きなジャンルを夢中でやる方がいい。努力は夢中に勝てないですから」

普段から、努力の大切さを選手達に説いている監督・コーチはとても多いと思います。僕も間違いなくその一人です。しかし、本人が「夢中」になっていれば、そこにはわざわざ「努力」などという言葉を持ってくる必要はない。苦しくも、つらくも、嫌なことに打ち克つとかでもない。ただそのスポーツで強くなることに「夢中」であれば、どんなキツい練習にも自ら進んで取り組むし、その後には達成感が待っている。翌朝、昨日より強くなった自分がいて、だからまた今日も夢中になって頑張れる。

そうしたポジティブ・スパイラルに入った状態が最高に強いのだ、と設楽氏は言っているのではないでしょうか。

フロー理論にも共通している?

スポーツ心理学やコーチングの世界で「夢中」「無我夢中」と言った場合、想起されるのは「フロー」あるいは「ゾーン」といった言葉ではないでしょうか。

「フロー理論」は、米クレアモント大学の心理学者、ミハイ・チクセントミハイ博士によって提唱されたものです。フローとは、「内発的に動機づけられた自己の没入感覚を伴う楽しい経験を指し、フロー状態にあるとき、人は高いレベルの集中力を示し、楽しさ、満足感、状況のコントロール感、自尊感情の高まりなどを経験する。」(出典:Flow Institute HP)などと定義されているものです。

チクセントミハイ博士の著書は邦訳版もいくつか出ているものの、どれも小さい字がびっしり詰まっていてしかも難解な日本語なので、正直僕は読み切るに至りませんでした。幸いにも、このフロー理論でコンサルティングコーチングをされている方々が多くおられるようで、インターネット上に様々な情報が出ていますから、それらをかいつまんで情報収集すれば、エッセンスについては理解できると思います。
チクセントミハイ博士は、2004年2月にTEDでフローについての講演をした際、フロー状態に入るための「7つの条件」を挙げています。それを書き写したメモを以下に貼っておきます(スライド中の日本語は僕の意訳です)。 


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スポーツの世界においては、通常この「フロー」を、競技中・運動中の心理状態として理解していますが、今回はそれをさらに意訳・拡大解釈して、競技活動全般・選手生活全般がそのようなポジティブ・メンタリティによって満たされている状態、と捉えることにしましょう。

我が部に当てはめると、何が必要か

上掲の「7つの条件」は、フロー状態の描写なのか、フローに入るための条件なのか、ちょっと判別しにくいかなとも思われます。ただまあ細かいことは気にせず、これらを全て一旦咀嚼し消化した上で、スポーツ選手、ことに自転車競技部の部員達がどうすれば前述した「広い意味でのフロー状態」に入ることが出来るか、それを考えたいと思います。
例えばですが、以下のようなことが思い付くのではないでしょうか:

①入部当初の様々なセットアップの支援

機材・用品の的確な取り揃え、正しいポジションやフォームのセッティング、安全対策など、自転車競技を始めるに当たっての導入部分が適切かどうかは、その後の練習が楽しくなるかどうかに大きく影響します。基礎をしっかり整えてあげることは、毎日少しずつ(しかも安全に)強くなっていくポジティブ・スパイラルへの近道となるでしょう。

②小さな目標設定と、達成感・成功体験の獲得

三本ローラーで手放しが出来たでもいいし、1kmTTでベストタイム(たとえ1分21秒であっても)が出たでもいい。学連のレースでクラス2がまだ遠ければ、ホビーレースの中級くらいのレースで先頭集団ゴールしたでもいい。入門者なりのスキルに見合った毎日の練習や小さな試合でのちょっとしたタスクと、それを達成した成功体験の積み重ねが、いつの間にか高く大きな目標になっていけば良いと思います。
考えてみれば僕だって、子供の頃から”運動神経”がない部類だったのに、高校で自転車競技を始めてすぐに関東大会とやらへ出られてしまったために(今から考えれば全く大したことではないのですが)、勘違いしてここまで来てしまったように思います。
指導者はついつい「高い目標」「大言壮語」を求めがちかもしれませんが、そればかりではなく、そこに至る過程での身近な目標にも気を配りたいと思います。

③的確かつタイムリーなフィードバックの実施

インナー・クラリティ(内部的明快さ?)という言葉が使われていましたが、自身の現状や今後の方向性がきちんと理解出来ている状態、とでも言えると思います。部員達がこの状態に至るには、指導者がある程度のフィードバックを与えてあげることが本来有効でしょう。しかもそれは時宜をとらえて効果的に行うこと。それによって、明日は何を目的に何をやろう、という前向きな姿勢が生まれるのではないかと考えます。
ただし社会人コーチでは毎日の練習を見たり、こまめに全員とコミュニケーションを取ることがなかなか困難です。そのために、個々が練習日誌を書くことで、自分自身にフィードバックを与えること、あるいは離れた指導スタッフからのフィードバックを受けやすくすることが大切なのです。

④無用なノイズの除去、競技に集中できる環境の整備

当部部員はマルチタスクをこなせる人材になって欲しい、という思いがありますから、競技・部活動のほかに、学業・家庭・バイトといった学生生活で必要な大きなタスクについては、ぜひバランスを取って効率的に両立して欲しいと思います。
一方、ウエイト機器やワットバイクを部室に備えたり、部運営の必要な仕事はマネージャー含めて全員で少しずつ分担したり、部員間の人間関係が円滑であったり、といった色々な意味での環境整備は、集中・没頭のために気を配るべきものと思います。
こうした環境面というのは本来は外的要因であって、今回のテーマである内発的な「夢中」とはやや矛盾するような気もします。ただし現代の学生達のメンタリティーを考えると、これらの環境要因が内発的動機付けにプラス/マイナスとも大きく影響するに違いない。だとすれば、彼らが安心して気持ち良く競技に没頭できる環境整備に心を砕きたいと思うのです。

⑤非日常感の演出

「継続は力なり」をまさに地でいく自転車競技は、コツコツ型スポーツの典型と言えるでしょう。しかし、ただその繰り返しだけでフロー状態に入れというのもなかなかツラいものがあります(中にはそれが出来る人もいるのでしょうが)。
時にはゲーム性を含んだ練習をしたり、合宿で伴走車からボトル補給をしてツール・ド・フランスの選手になったような気分を味わわせたり、といった仕掛けを織り込んでみる。あるいはそこまでいかなくとも、出来るだけ毎日の練習メニューに変化を与え、「新しい自分」を開発できる機会を増やす。そのような工夫によって、日常のルーティンから抜け出し、フローに入りやすくする効果があるのではないでしょうか。

「単なる楽しさ」を超えた先にある「無我夢中」

塾野球部の名監督であられた故・前田祐吉氏は、ちょうど先般、野球殿堂入りのニュースが伝えられたところですが、彼の唱えた「エンジョイ・ベースボール」の精神は、今でも塾野球部に脈々と受け継がれているものと思います。当部も同様に、自転車競技をエンジョイして欲しいと思っています。

ただし間違って欲しくないのは、単に練習をしていて「気持ち良いね、楽しいね」という低レベルな話ではなく、時にはものすごくキツい練習もしながら「自己の成長が感じられる楽しさ・嬉しさ」に没頭しますます強くなっていく、そんな状態のことを我々は「エンジョイ」と表現しているのだ、ということです。

今日の自転車競技の環境は、カッコ良く速そうな機材・用品が豊富にあるし、やれパワーメーターだインドアシミュレーターだとトレーニング手法も様々、またロードやトラックだけでなくグラベルシクロクロスなども活性化しているなど、とにかく「楽しそうなこと」に溢れています。経済的な問題を別とすれば、学生達が色々目移りしてチャラチャラとつまみ食いしたくなるのも、いち自転車好きとして分かる気はします。

ただし、つまみ食いではしょせん「楽しかったね」の域は出ない。何のためにその機材やトレーニングを選んだかをきちんと考え、狙った効果を享受できるまで継続的に追い込んでいく。そのプロセスを経た向こう側に、「無我夢中」の境地があるのだと思っています。そしてそのゾーンを一度経験した選手はきっと、そこから先は誰に何を言われなくとも、自律的・自発的にさらなる創意工夫とさらなるキツい練習に取り組み、ますます成長角度が上がっていく、そんなポジティブ・スパイラルに昇華していくことでしょう。

冒頭で紹介した設楽社長のビームスは、店舗に行ってみるとまさに「洋服好き」「靴好き」「カバン好き」達がそれぞれの持ち場で楽しそうに仕事をしている姿を見ることが出来ます。その裏にはきっと日々の知識吸収や接客技術向上などの「努力」があるはずなのですが、彼らにそのような「汗水感」はなく、代わりに「純粋に好きで夢中で仕事しているだけですが何か?」という雰囲気がある。

我が自転車競技部も、そのようなフロー感覚で勝利を目指す雰囲気を、部員・指導スタッフ・OB/OGなどの皆で作っていきたいものだと考えています。

(2020/1/28)